それなりのことを不特定多数に発信することのできるメディア
「はてなブログ」を始めてからそろそろ1ヶ月を迎える。
その影響か、旧ツイッター、現XをはじめとしたSNSの使い方が上手くなったというか、
棲み分けが少しずつできるようになってきた気がする。
なんとも難しいが、本当のつぶやきの割合が増えたように思う。
なんだかよくわからないことを140文字にとどめて、匂わせるみたいな
それっぽいことをあまりしなくなったと思う。
色々あって9月に仕事を辞めて、転職活動もいいところまでは行くもののみたいな現場。
その状態をよく思わない母親が、いろんなリスキリングの提案をしてきたが、
全部ありきたりで、適当に調べただけで、自分のためになるとは思わなかった。
実家に戻ってきてもいいし、その間で大学院に行くという選択肢も打診された。
そもそもそんな簡単に大学院に入れるものなのか、院に言って何をするのか、
そんなこと知ったこっちゃない。そんなんだったら提案しないで欲しいものだ。
迷いが生じてしまう。
大学に関しては父親がよく知っているとはいえ、特殊な大学ゆえ、一般的なところは
あまり当てにならないし、短大卒の母親なんてもっと当てにならない。
ということで私が藁にもすがる思いで頼ったのは、学生時代、ゼミで指導してくれていた
教授だった。
南方熊楠研究の第一人者で、東大学士から、東大学院にいったエキスパート。
なぜ京都の中ランクの大学にそんな教授がいるのか謎なのだが・・・
まあ少し変わった人ではあって、本当に幅広くいろんなことを知っていたし
ああいう人を博識な人と言うんだろう・
卒業論文のテーマを伊藤計劃に決めた時、後押ししてくれた人でもあった。
まあそんな人だから、相談に親身にのってくれたし
私の大学院進学にも肯定的だったし、研究職も向いていると勧めてくれた。
だがその道が幸せなのだろうかとも思ったが
自分にしかできないやるべきことをすぐに見出してくれた。
やはり、すごい人だと思った。
院に行くことを考えた時、自分のやりたいことを内省してもあまりいいものは出てこなかった。親に言われるがまま、芸術学を学ぶのか、それとも学部時代に研究した伊藤計劃で行くのかそんなとこしか思いつかなかったが、
外から分析してみてくれていた人が出した答えがあまりにも妥当すぎて、感動した。
人生を懸けて、自分が向き合うべきものが見つかったような気もした。
それは私の生い立ちというか、特殊な家庭事情にある。
私の家はなんら普通のサラリーマンの家庭ではない。
以前どこかでも書いたが私の家系は代々続く陶芸の家系。
とはいえよくある世襲制の家系ではないことから、私も私の弟も陶芸家を継がなかった。
父親の代で一旦は途切れているわけだが、私はこの家がいつから陶芸の家なのかを実は
あまり知らない。曽祖父からしか知らないが、曽祖父のことを少し調べたら、陶家に生まれると書いてあったからそれより前から続いていることくらいしか知らない。
思い返せば自分を語る上で、自分の家のルーツなんて全く知らないし、
生きている祖父までしかよく知らなかった。
祖父は陶芸で旭日中綬章と文化功労者をとっていて、父はそんな祖父の後を継いで
陶芸家と京都市立芸術大学で働いている。
昔は何にも考えてなかったが、そんな偉大な祖父がいるのに父はよくこの陶芸家を継いだなと今なら尊敬できる。
それは父なりに自分と向き合った結果なのだろう。
そういうところを鑑みて、やはり自分は自分と全然向き合えていなかった。
就職活動での自己分析も全然足りてなかった。
もっと貪欲に、自分にあるもの、自分にしかできないものを見つめるべきだったと
気付かされた。
再就職して、自立した生活を続けるのか、大学院にいって学び直すのか
そういった単純な選択ではなく。
向き合って生きるのか、向き合わずして生きるのか
向き合った先には何があるのか、それを選ぶ岐路。
切羽詰まっている、もう後戻りはできない、そう思っていたが
もっと自体は切迫していて、この選択を後悔しないようできるかが
自分がどう死んでいくのかを左右するのだ。
そんなことを考えながら、映画「青い春」のラストシーンを見ながら書いている。
あとは飛ぶだけ。それだけなのだ。