足りる幸せよりあるもので・・・

昨日は転職活動の帰りで呑んでいた。

谷町六丁目にある居酒屋、立呑めがね堂というところだ。

以前ライブ帰りに勢いで入って以来2回目だ。

いつも決まって頼むのは酒盗マスカルポーネとその日のつまみ3種盛り。

めがね堂に立ち寄った際はこの2品を頼んでおけばいいと思う。

あの食べ物は間違いなく特許を数年後とるだろう。

もし、お金に余裕があって、時間を持て余しているなら

手作りの酒盗マスカルポーネを作って販売するキッチンカーで

荒稼ぎしたいところである。

そのまま勢いで玉造駅前まで歩いて、ずっと気になっていた

「ひよこ」というスナック?バー?のような店に。

たまに外から見ると賑やかそうで楽しそうな雰囲気なのでずっと気になっていたのだが、

今日覗いてみると、The Birthdayの「カレンダーガール」のMVが流れていて、

気がついたら入店して、ラッキーストライクに火をつけていた。

 

店主は40歳でミッシェル世代の方、チバさんの訃報からずっと

The Birthdayやミッシェルの映像をずっと流しているそうだ。

あーだこーだ身の丈話をしているうちに、人も増えてきて、カラオケが始まった。

いつもこういうスナックとか、バーとかで歌う曲は大体

上の世代に響く曲やJ-popを選びがちな私だが、その日は

「ドロップ」を皮切りに心ゆくまで、喉が持つまでミッシェルやThe Birthdayを歌った。

ミッシェルやThe Birthdayを歌うときは必ずしゃがれ声になるようにしているため、

あまり人前で歌わないようにしている。

いつも歌って呑んでしてる大正のバーで歌おうとも思ったが、

その日は違った。思いっきりチバユウスケを歌いたかった。

人目を気にする方の私が、思いっきり曝け出すことができたのは久々だった。

仕事を辞めて、転職活動を始め、新しいストレスや付き物、溜まっていたものを

全部吹き飛ばせたような気がした。

自分のバンドでは絶対に使わないしゃがれ声やロングトーンを全力でやるのは

本当に気持ちが良かった。

 

面接でのストレスは仕事のそれよりはかなりマシだが、

にしても許せないことも多々ある。

どこそこ生命のライフプランナーを受けた時、

馬鹿みたいに自分の話ばかりする面接官がいた。

もはや面接というより、人生のアドバイスの方が多かったようなきもする。

「お前に言われなくとも・・・」という怒りは鎮めながら、

「本当にしんどいけど、それを上回るもの(収入)がある」

「収入があるのはスポーツ選手と同じで私たちがプロだから、メジャーリーガーだから」

などと宣ったわけだ。私はその全てに腹が立った。

机を全部ひっくり返してやりたくなった。

そんな魂胆で保険の営業をするから、印象が良くないんだろう。

他の仕事をしたに見るような、そんな思考回路しか持ち合わせていないような

クズと仕事なんてこちらから願い下げなのだ。

仕事時間も自分で決めることができるから家族とも時間が取れるとか、

収入もたくさんあるから、子供達に下宿させて拠点が3つあるとか、

そんなのどうだっていいんだよねほんと。

私が小さい頃父は大学の非常勤をしながら、新人の陶芸作家をしていた。

今では公立大の教授と陶芸家の二足のわらじを履いているが、貧しい小学生時代を過ごした。

食べることには困るほどではなかったが、友達が持ってるゲームやスナック菓子、娯楽品はあまり買ってもらえなかった。毎月、信楽の祖母から送られてくるお菓子と小学館の雑誌が楽しみでしかたなかった、小学館の雑誌についてくる付録の紙工作で工夫して楽しむそれはそれで良かったし、据え置きゲームができるのは信楽の家に行った時か友達の家で遊ぶ時だけだったけれど、自宅にいるときはLEGOブロックで何かを作って遊ぶことが楽しかった。

だから、基本的には足りる幸せより、あるもので楽しむ派なのが私だ。

しかしそんな幼少期を過ごしたからこそ、

結婚して子供が生まれたらそんな思いはさせたくないと思うから、

だからこそ、今はまだ結婚も子供もあんまり考えられない。

ここからの選択次第では結婚すら怪しくなるかもしれない。

経済的な安定は数字の上でのゆたかさで、

絶対的なものであって誰が見てもわかるものだけれども、

私に言わせてみればそれは机上の空論、本当のゆたかさではないと思う。

人間のゆたかさを人が作り上げた数字というもので定義はできない。

数値だけが全てなら、私たちが人間である必要はないだろう。

数値上の幸せを追っても、それ以外のところで皺寄せがきて、ゆとりがなくなってしまえば

もともこもない。

そしてこういった数値上の幸せを、よりにもよってライフプランナーだとか、

キャリアアドバイザーだとか人の人生を左右する仕事をする人間が追いがちなのだ。

キャリアアドバイザーは自分の成果のために、ざるのような企業を何社も紹介してくるし

内定が取れるように面接を組んでくる。数字の評価はそれの方が上がるかもしれないが、

向き合っているのは人間で、機械でもゲームのAIでもないのだ。

本当にその人がやりたいこと、向いていることなのかそんなことを少しでも考えて

提案していただきたい。

つまり何が言いたいかというと、この転職ではそういった現状から、

より人のことを思って働くキャリアアドバイザーになりたいと思う。

それが一つの目標。

もう一つは夢の話で、かなりリスキーだし、多分お金は稼げないけど

自分にしかできない、やりたいことも見つかった。

なんでこう毎回、お金はかかるけど、お金は稼げないことばかりやりたくなるんだろうね。

冬が始まるよ

ついに冬が訪れた。

大阪に来て5回目の冬だ。

冬は鍋がうまくて最高だ、筆者は豚バラ白菜鍋かもつ鍋が好きで

毎年必ずやるのだが、もつ鍋をやるたび後悔をしている。

もつ鍋は野菜基本切って、もつに火を通して、野菜を煮込む簡単に美味しくなるのだが、

私はもつ鍋の出汁から作るのが好きでよくこだわって作ってしまう。

さらに、最近はもつの下処理も行うため、かなりの手間がかかるわけだが。

そんな手間も愛おしくなるくらいうまく感じる。

締めには必ずマルタイの棒ラーメンを一袋まるまるいけてしまう。

しかしだ、問題は食べ過ぎではない。問題は片付けにある。

脂をたくさん含んでいる食品もつを調理すると、大量の脂を処理しなければいけなくなってしまう。排水溝が大惨事になってしまうのが必然なのだ。

そんなことだからもつ鍋はぜひお店で食べよう。

昨日の予告通り、最近買ったものの話をしよう。

最近私はノベルゲーを購入した。

ノベルゲーはその名の通り、小説のように楽しむことができるゲーム。

色々創作のネタになることからたまに買うが、まあ高い。

冬になりセールをするということから意を決して購入した。

購入したのは、以前購入したものの続編というか、ファンディスクというやつだ。

そう、包み隠さずにいうとエロゲー、ギャルゲーを購入したのだ。

ギャルゲー、エロゲーは選択肢でストーリーが変わるところが私は好きで、

その手のゲームをよくやるのだが、エロゲーの方がなんだかんだでストーリーがいい気がする。

つまるところ、一つの文学だと私は捉えている。

ギャルゲーとエロゲーの共通点は感情を動かない静止画を使って

言葉で人の感情を動かすところだが、エロゲーはその上をいく。

ギャルゲーで描けることはエロゲーでも描くことはできるが、

エロゲーで描くことはギャルゲーには難しいのである。

私とエロゲーの出会いは10年ほど前、FC2動画を漁っていた思春期

名作、辻堂さんのバージンロードのプレイ動画と出会った。

さらに人気ストーリーの梓ルートに出会ってしまったのだ。

そこから、自分のパソコンを持つまで10年。

ようやく昨年、辻堂さんのバージンロードを始め3作ほど購入し、

エロゲー、ギャルゲーのシステムから餞という曲も作った。

「選べない二人にはそれぞれ抱えるシナリオが、それぞれの結末へ向かって動き出す」

これ本当に生々しい話をすると辻堂さんの最初の作品と

バージンロードの辻堂トゥルーエンドのことをイメージしながら書いた。

最初の作品はヒロインが3名、全員がメイン級なのだが、正史は辻堂さんルート。

選ばれなかった二人にも実はそれぞれにシナリオがあって、

それは進んでるんだということ。

あとは基本自分は何かに選ばれてこなかったような存在で、周りが結婚ラッシュに入ったこともあって、選ばれなかった方も報われるような歌を作りたかったのもある。

なんにせよとてもいい曲だからSoundCloudでぜひ聴いてほしい。

おそらく窒息と花冷えについで、SoundCloudからバンドに持ってこようと思ってたりする。

今は窒息、ざわめく粒子の2曲だが、もう1曲合わせてない新曲があるし、

さらに今猛烈に曲を作っているので、それで4曲。

あとはうちのベースが2曲ほど作ってくれるみたいなので、

なんとか2月ごろにはライブできそうだ。

春から初夏くらいレコーディングとかしたいね。

 

なんとなしにどういうリリースをするのか構想はあるから・・・

構想だけは・・・

あとは飛ぶだけ

それなりのことを不特定多数に発信することのできるメディア

はてなブログ」を始めてからそろそろ1ヶ月を迎える。

その影響か、旧ツイッター、現XをはじめとしたSNSの使い方が上手くなったというか、

棲み分けが少しずつできるようになってきた気がする。

なんとも難しいが、本当のつぶやきの割合が増えたように思う。

なんだかよくわからないことを140文字にとどめて、匂わせるみたいな

それっぽいことをあまりしなくなったと思う。

 

色々あって9月に仕事を辞めて、転職活動もいいところまでは行くもののみたいな現場。

その状態をよく思わない母親が、いろんなリスキリングの提案をしてきたが、

全部ありきたりで、適当に調べただけで、自分のためになるとは思わなかった。

実家に戻ってきてもいいし、その間で大学院に行くという選択肢も打診された。

そもそもそんな簡単に大学院に入れるものなのか、院に言って何をするのか、

そんなこと知ったこっちゃない。そんなんだったら提案しないで欲しいものだ。

迷いが生じてしまう。

大学に関しては父親がよく知っているとはいえ、特殊な大学ゆえ、一般的なところは

あまり当てにならないし、短大卒の母親なんてもっと当てにならない。

ということで私が藁にもすがる思いで頼ったのは、学生時代、ゼミで指導してくれていた

教授だった。

南方熊楠研究の第一人者で、東大学士から、東大学院にいったエキスパート。

なぜ京都の中ランクの大学にそんな教授がいるのか謎なのだが・・・

まあ少し変わった人ではあって、本当に幅広くいろんなことを知っていたし

ああいう人を博識な人と言うんだろう・

卒業論文のテーマを伊藤計劃に決めた時、後押ししてくれた人でもあった。

まあそんな人だから、相談に親身にのってくれたし

私の大学院進学にも肯定的だったし、研究職も向いていると勧めてくれた。

だがその道が幸せなのだろうかとも思ったが

自分にしかできないやるべきことをすぐに見出してくれた。

やはり、すごい人だと思った。

院に行くことを考えた時、自分のやりたいことを内省してもあまりいいものは出てこなかった。親に言われるがまま、芸術学を学ぶのか、それとも学部時代に研究した伊藤計劃で行くのかそんなとこしか思いつかなかったが、

外から分析してみてくれていた人が出した答えがあまりにも妥当すぎて、感動した。

人生を懸けて、自分が向き合うべきものが見つかったような気もした。

それは私の生い立ちというか、特殊な家庭事情にある。

 

私の家はなんら普通のサラリーマンの家庭ではない。

以前どこかでも書いたが私の家系は代々続く陶芸の家系。

とはいえよくある世襲制の家系ではないことから、私も私の弟も陶芸家を継がなかった。

父親の代で一旦は途切れているわけだが、私はこの家がいつから陶芸の家なのかを実は

あまり知らない。曽祖父からしか知らないが、曽祖父のことを少し調べたら、陶家に生まれると書いてあったからそれより前から続いていることくらいしか知らない。

思い返せば自分を語る上で、自分の家のルーツなんて全く知らないし、

生きている祖父までしかよく知らなかった。

祖父は陶芸で旭日中綬章文化功労者をとっていて、父はそんな祖父の後を継いで

陶芸家と京都市立芸術大学で働いている。

昔は何にも考えてなかったが、そんな偉大な祖父がいるのに父はよくこの陶芸家を継いだなと今なら尊敬できる。

それは父なりに自分と向き合った結果なのだろう。

そういうところを鑑みて、やはり自分は自分と全然向き合えていなかった。

就職活動での自己分析も全然足りてなかった。

もっと貪欲に、自分にあるもの、自分にしかできないものを見つめるべきだったと

気付かされた。

再就職して、自立した生活を続けるのか、大学院にいって学び直すのか

そういった単純な選択ではなく。

向き合って生きるのか、向き合わずして生きるのか

向き合った先には何があるのか、それを選ぶ岐路。

切羽詰まっている、もう後戻りはできない、そう思っていたが

もっと自体は切迫していて、この選択を後悔しないようできるかが

自分がどう死んでいくのかを左右するのだ。

そんなことを考えながら、映画「青い春」のラストシーンを見ながら書いている。

あとは飛ぶだけ。それだけなのだ。

みんな10年前は10歳若かったんだぜ

私は映像制作の会社に所属していた4年半、報道番組の常駐スタッフとして勤務していた。

外から見てもテレビ番組は昨今入れ替わりが激しいわけだが、

それは内側から見ると尚実感するわけで、自分のいた4年半は本当に目まぐるしく変化した。

3年目を迎える前に、司会者が代わり、番組名も変わり、スタジオも変わり・・・

ハードウェアが変わった。とはいえ、ソフトウェア、内部の制作に携わる人間というのは

変わらなかったが、そこから、あっという間に社員が入れ替わり様変わりした。

最初は純粋な報道番組として、社会問題を切り込む司会者の角度と番組のスタンスが人気を博していたが、司会が変わると緩やかに変化していった。

それに気づいていたけど気づかないふりをさせたのはコロナ禍での報道バブル。

報道番組は無条件にと言ってもいいほど軒並み視聴率が上がり、

我々の戦場である土曜朝8時は報道にとってのブルーオーシャン

司会者が変わっても視聴率は変わるどころか、伸びていく一方だった。

だがその報道バブルも長くは続かなかった。押し付けられる自粛の波に耐えきれず。

1年かそこらで弾け飛んだように思う。

コロナを報じれば数字の上がる時期を経験し、感覚が鈍ってしまったところで

報道番組のあり方が変わったように思う。というより、均一化されたようにも思う。

独自目線でする報道番組が減少、担当番組ももちろんその渦の中だった。

視聴率が取れなくなって、文化人を軒並みカットして

有名タレントや元アイドルを呼び、生活とかけ離れた

政権批判風の井戸端会議をお届けするようになり。

それでも数字が取れないからと芸能人の訃報を取り扱い始めた。

1年ちょっとはコロナのない報道番組を経験した身でも、本当に嫌だった。

コロナと関係ある死を取り上げるのはギリギリわかるが、それと関係なく亡くなった人を

嬉々として取り上げるのはいかがなものかと思うし、それを見せても人の生活は豊かにならないし、もっと社会的意義のある報じるべきことがあるように思えた。

それでも疑いなく、誰かが週半ばで死ねば、必ずトップニュースに入ったりしていた。

その拙僧のないスタンスがどうも好きになれなかった。

だって、デイリーニュースでやっているのだから。そこに目線もクソもあるわけない。

有名人の死というセンセーショナルさで視聴率を稼ごうというあざとい考えがどうも好きになれない私である。

あとは伊藤計劃の影響も多少あるのかもしれない。ハーモニーという小説の主人公。

健康管理社会に抵抗するため、友人のミァハと自殺をしようとする。

結局成功したのは友人だけ、その死を過剰に悼む母を見て

「そうやって誰彼構わず他人の死に罪悪感なんて持っちゃ、いけないんだよ。

だって、ミァハとお母さんにはなんの接点もなかったんだもの。

私が憎んだのはそう感じさせるこのセカイの空気。」(伊藤計劃 <harmony/>66項より)

 

そういったことから、人の死、特に有名人の死には感情が動かなかった。

しかし、今日だけはそれらのみみっちいポリシーをとっぱらいたい。

大好きなヒーローが星になったのだ。

私は中高生くらいからバンドに興味を持ち、大学からギターを手に取った。

最初は全然バンドのことを知らなかったけど、どんどんいろんなバンドを知っていった。

その中で、学祭の夜のステージで先輩がTHEE MICHELGUN ELLEPHANTとTHE PINBALLSをコピーするのを見て衝撃が走った。

急いで、ウォークマンにミッシェルやTHE BIRTHDAYのデータを入れて聴きまくった。

大学生活の音楽の半分はチバユウスケだったかもしれない。

コピーすることはなかったけれども、憧れの存在だ。

セミアコを試奏しにいって、自分の演奏する姿があまりにも似合わなさすぎて

違うギターを買ったのだが、憧れる気持ちは諦めきれず、テレキャスターを改造し

ピックアップをグレッチのものにしたり、チバが当時MVで吸っていたラッキーストライクを吸ったりもした。

就活に赴く時は自分を奮い立たせるため、「THE ANSWER」という楽曲を聴いたり、

不安になりそうな時は「青空」を聴いた。

チバユウスケが「お前の未来はきっと青空だって」と背中を押してくれるように感じた。

そして仕事では担当していた番組で、関西で名のしれた気象予報士と仕事をするのだが、

打ち合わせに向かうと彼がBacchus製のテレキャスターを弾いていた。

打ち合わせそっちのけで、ギターの話をして、「何か弾いてみてよ」と言われ

ミッシェルの「世界の終わり」のリフを弾いた。偶然その気象予報士はミッシェル世代で

すごく盛り上がり、中を深めたのを覚えている。その後もスラムダンクの話で盛り上がったりしたのはまた別のお話、書き続けるとその人の名前を書いてしまいそうになるので・・・

これだけ話があるのに、実は直接ライブで見たことがないのが非常に残念だ。

なんでもそうだが、人はいつ死ぬのかわからない。

生きてるといろんなことがある。

 

「みんな10年前は10歳若かったんだぜ、不思議だよね産まれてない子もいるもんね、

死んじゃったヤツもいるか人生それぞれだわ」チバユウスケ

 

意識せずとも別れは訪れるもので、自分の中で大切だった何かが

知らないうちになくなっていることだって全然ある。

だからこそ慣れていかないといけないし次に進まなくちゃいけないし、

そして自分にもそれがいつ来るかわからない。

だから後悔のないように生きないといけない。

まだ見てない映画とか、ライブとか、聴きたかたった曲が

いつ見られなくなるか誰にもわからない。

死んでから生きててよかったとか思えるよりも

今を楽しまないといけないと切に思う。

冬が始まるよ

ついに冬が訪れた。

大阪に来て5回目の冬だ。

冬は鍋がうまくて最高だ、筆者は豚バラ白菜鍋かもつ鍋が好きで

毎年必ずやるのだが、もつ鍋をやるたび後悔をしている。

もつ鍋は野菜基本切って、もつに火を通して、野菜を煮込む簡単に美味しくなるのだが、

私はもつ鍋の出汁から作るのが好きでよくこだわって作ってしまう。

さらに、最近はもつの下処理も行うため、かなりの手間がかかるわけだが。

そんな手間も愛おしくなるくらいうまく感じる。

締めには必ずマルタイの棒ラーメンを一袋まるまるいけてしまう。

しかしだ、問題は食べ過ぎではない。問題は片付けにある。

脂をたくさん含んでいる食品もつを調理すると、大量の脂を処理しなければいけなくなってしまう。排水溝が大惨事になってしまうのが必然なのだ。

そんなことだからもつ鍋はぜひお店で食べよう。

昨日の予告通り、最近買ったものの話をしよう。

最近私はノベルゲーを購入した。

ノベルゲーはその名の通り、小説のように楽しむことができるゲーム。

色々創作のネタになることからたまに買うが、まあ高い。

冬になりセールをするということから意を決して購入した。

購入したのは、以前購入したものの続編というか、ファンディスクというやつだ。

そう、包み隠さずにいうとエロゲー、ギャルゲーを購入したのだ。

ギャルゲー、エロゲーは選択肢でストーリーが変わるところが私は好きで、

その手のゲームをよくやるのだが、エロゲーの方がなんだかんだでストーリーがいい気がする。

つまるところ、一つの文学だと私は捉えている。

ギャルゲーとエロゲーの共通点は感情を動かない静止画を使って

言葉で人の感情を動かすところだが、エロゲーはその上をいく。

ギャルゲーで描けることはエロゲーでも描くことはできるが、

エロゲーで描くことはギャルゲーには難しいのである。

私とエロゲーの出会いは10年ほど前、FC2動画を漁っていた思春期

名作、辻堂さんのバージンロードのプレイ動画と出会った。

さらに人気ストーリーの梓ルートに出会ってしまったのだ。

そこから、自分のパソコンを持つまで10年。

ようやく昨年、辻堂さんのバージンロードを始め3作ほど購入し、

エロゲー、ギャルゲーのシステムから餞という曲も作った。

「選べない二人にはそれぞれ抱えるシナリオが、それぞれの結末へ向かって動き出す」

これ本当に生々しい話をすると辻堂さんの最初の作品と

バージンロードの辻堂トゥルーエンドのことをイメージしながら書いた。

最初の作品はヒロインが3名、全員がメイン級なのだが、正史は辻堂さんルート。

選ばれなかった二人にも実はそれぞれにシナリオがあって、

それは進んでるんだということ。

あとは基本自分は何かに選ばれてこなかったような存在で、周りが結婚ラッシュに入ったこともあって、選ばれなかった方も報われるような歌を作りたかったのもある。

なんにせよとてもいい曲だからSoundCloudでぜひ聴いてほしい。

おそらく窒息と花冷えについで、SoundCloudからバンドに持ってこようと思ってたりする。

今は窒息、ざわめく粒子の2曲だが、もう1曲合わせてない新曲があるし、

さらに今猛烈に曲を作っているので、それで4曲。

あとはうちのベースが2曲ほど作ってくれるみたいなので、

なんとか2月ごろにはライブできそうだ。

春から初夏くらいレコーディングとかしたいね。

 

なんとなしにどういうリリースをするのか構想はあるから・・・

構想だけは・・・

師匠走る しわす

早いもので12月年の瀬。

今頃は新しい会社で働いているつもりだったが、

少し手こずりながら、未だ無職だ。

内定も数社ほどいただいたが、条件面がそぐわず、お断りし今に至る。

働く気がないわけではないのだが、どうもピンとこない。

さてはて血迷っている私に、昔父親の手伝いでよく実家にきて、遊んでくれた

人に合わせたいと母が京都のある展覧会に連れて行ってくれた。

曽祖父より前から続く芸術一家に長男として生まれた私だが、全く芸術には明るくない。

興味がないわけではないが、ほとんどの美術品のどこがいいかわからない。

それは幼い頃、父親や祖父の展覧会がある度、美術館や博物館、デパートの画廊に同行していたのが理由かもしれない。良いふうに言うと、現市川團十郎、当時海老蔵の歌舞伎に対するそれと同じような気持ちだった。おそらく当時の海老蔵氏と飲めば楽しく話せただろうし、

飲めるなら飲んでみたいものだな・・・いや辞めておこう、灰皿テキーラとかやらされそうだし、テキーラもショットなら良いんですけどね。

まあそんな海老蔵こと私は、美術館や博物館に興味がない。

ただ、人並みの学力や読解力はあるので、全く楽しめないわけではない。

展示に対するコメントに母親が驚き、学芸員になることを勧めてきた。

一度大学で受講するのをやめた博物館学芸員。

それに向いていると言い出した。なんとなく、中学受験を思い出した。

面接と小論文が得意な私に向いているとお受験を勧めてきたあの感じ。

学芸員資格を取るため、大学院を受けろと提案してきたのだ。

学費は全て親持ち、条件は素晴らしいが、果たして学業から離れた4年経つ私に

そんな無茶通るのだろうか。

かなり不安だが、やれるだけやってみようとは思う。

 

明日は最近買ったものについて書いていこう。

エッセイ 唐突な物語たち

それは唐突な出来事だった。

大学一回生の時に文化祭実行委員会で一緒になって仲良くなってそれっきりだった友人から、年末大阪である音楽イベントに誘われた。

卒業から4年半、文化祭実行委員会で知り合ったところで行くと8年ほど時間が空いている。

コロナで色んな友人を失った。

別に死別したわけじゃない。

単純にいなくなってしまった。

コロナウイルスとはつまり、人間関係の再生産を行うためのものだったのだと世の中を恨んだ。

そんな私の誕生日必ずメッセージをくれるような知り合いだった。

それだけの知人から唐突な誘いだった。

もちろん仕事を辞めたことも

言ってないような仲なのだけれども、

と言うか仕事を辞めたことを言える人など家族と、バンドのメンバーと転職の面接相手くらいだろう。自覚のない間に、人を信用出来なくなってしまったのかもしれない。

 

それは唐突な知らせだった。

好きなバンドのライブに向かうため、

天王寺へLUUPを利用していた道中

祖父から電話があった。仕事の最中だろうと容赦なく電話をかけてくる祖父だから、いつものことだろうとスルーしていた。

それは天王寺のライブハウスに着き、

整理番号順に並んだ時だった。

祖母が倒れたという知らせが母から入った。

もう整理番号が呼ばれるその手前だった。

小脳の出血大事はないと聞き、ライブを観た。

ライブは一期一会、その時々のセットリストがある。死に目に遭えないなんて言われる仕事をしていたからか、不思議と落ち着いていた。

後日、見舞いに行くと祖母は管を繋がれながらも祖母だった、暑そうにミトンを外し、ぼんやりとした滑舌で一生懸命話してくれた。

それから数日、また見舞いに行くと祖母はやはり祖母であった。

コンビニのコーヒーを片手にスイーツを愉しんでいた。口を開けば、病院食が不味くて食べられないという子供のようなことを宣う。

実に祖母らしく安心したのを覚えている。

そんな祖母は山科のリハビリ施設に転移して、

社会復帰に奮闘しているが、その施設の食事に対しても文句を言っているようで、なぜかホッとした。いい加減自分がどういう状況で病気なのか理解して欲しいところではあるが、リハビリがうまくいけばそれでいい。それだけでいいんだ。

 

それは唐突な判断だった。

「仕事を辞める」そう決めたのは今年4月だった

年度が変わるタイミングでと自分の中で決め、

社長とも話していた。それまでに上に上がらなかったら踏ん切りをつけようと。

リミットを設けないとズルズルと居座って、自分にも会社にも良くない、そう思ったからそう決めた。

しかし、私は辞めるタイミングを予定より半年早めた。逃げるように早めた。いや実際逃げた。

音楽がやりたかったのは本当だけれども、辞める理由にしてるのもまた事実で、逃げだの負け犬だのと言われたが、それは自分が痛いほど分かってるし言われて当然だと思った。

だが、たぶんその当人は私のことをどこまで知って言っているのか知ったことではない。

年内で上に上がらなければ辞める、

そういう覚悟でやってきた半年間だった。

経験も積んできた矢先だった。

全てを嘲笑うかのように、吹き飛んだ。

後輩に後ろから刺され、

4年の研鑽を全て蹴散らされたのだ。

思えばぼんやり長くいるだけの4年半だったが、

それでも譲れないものもあったし、覚悟して挑んだ年だっただけにダメージは大きすぎた。

「ここからもう一度この業界で」という気持ちも

湧かなくなってしまった。

肩書きも、経験も未熟な自分がまたほぼゼロから積み上げるのか…20代前半でしたことと同じことを繰り返すのか…そう考えれば考えるほど、全部馬鹿らしくなって。どうせ0から積み上げるなら

趣味や娯楽も出来るところにしよう。なんなら

趣味を軸にして仕事を考えようと思い転職を決意した。

職場は契約が切れるタイミングの9月で卒業

基、辞め。そそくさとその足で会社も辞めた。

このタイミングを逃すとズルズルとまた行ってしまいそうだったから辞めるという選択をとった。

それはまさに逃げだった。

音楽をやるからというのも、逃げるための口実だと思われていた。

ただ、逃げでもなんでも良い。

人生の棚卸しをした時、たまたまタイミングが

そこだっただけで、逃げるしか考えられなかった。正しい判断を出来るうち、そうできて良かった。感覚が麻痺していればどうなっていたか

想像に容易いだろう。

 

その別れは唐突というより

当然のようにやってきた。

8月信楽に住む母方の祖母が死んだ。

くも膜下出血で意識不明となり倒れてから1年半だった。放送の仕事をしてた当時、金曜日に便りがあって、土曜日には通夜を行った。

本来なら金曜日から帰っても良かったが、

仕事してから来てもいいと言われたので、

徹夜明けで通夜に向かった。

京都に帰る電車で爆睡、京都から信楽に向かう車で爆睡したのに、式でも頭がカクンカクンなる始末。本当におばあちゃんに合わせる顔もない。

その後日、火葬を執り行い、遺灰となったそれは

あまりにも呆気なかった。

本当に火葬だけはどうも好きになれないというか

受け入れられない。あのスピード感といい

人を焼くということだって。到底耐えかねる。

だけれども、亡くなったということはどうしてか疑いようもなく、すっと腑に落ちた。

父方の祖母が倒れたとき落ち着いていられたのは

母方の祖母が亡くなっても落ち着いていたのは、

おそらく死という事象に慣れてしまったのか、

乗り越えるために感情の蓋をするようになってしまったか、そのどちらもかと思う。

母方の家族は、叔父、叔母、従兄弟しか残っていない。祖父が小学生の頃に亡くなり、

そして従姉妹は私が中学か高校生の時に亡くなった。特に、従姉妹は自ら死を選んだということもあってか、少々のことでは動じなくなった。

おそらくそのことがきっかけで、何らかの死別することへの耐性ができたのだとそう思っている。

すっと腑に落ちたのはそれだけではない、

祖母が1年半前に意識不明になったこともそうだし、その前に会った時も私の名前はあやふやだったそんなとこから不思議ではなかった。

だから、血も涙もないと言われようと、

何を言われようと、私は死という事象に耐性があるのだ。

 

唐突な出来事の連続、

それに対処療法的に生きていく。

それが人生だ。

出来事は突然でも、別れは当然で

避けては通れないものだ。

慣れていくというのは正しい表現とは言い難いが

慣れていかなければ自分の心がもたない。

そういう意味で、「ざわめく粒子」という

曲を作りました。

無駄な話をし損ねた。

その後悔の念だけが残っている、

人って往々にしてそんなもんなのかもしれないなと思いを巡らせながら。

 

というわけでサボっていた分、喫緊に起こった唐突な話をまとめて

エッセイとして書き上げた。本当は二日くらい前に上げる予定だったが、

色々不具合で申し訳ない。

また明日から毎日更新をしていく。