エッセイ 唐突な物語たち

それは唐突な出来事だった。

大学一回生の時に文化祭実行委員会で一緒になって仲良くなってそれっきりだった友人から、年末大阪である音楽イベントに誘われた。

卒業から4年半、文化祭実行委員会で知り合ったところで行くと8年ほど時間が空いている。

コロナで色んな友人を失った。

別に死別したわけじゃない。

単純にいなくなってしまった。

コロナウイルスとはつまり、人間関係の再生産を行うためのものだったのだと世の中を恨んだ。

そんな私の誕生日必ずメッセージをくれるような知り合いだった。

それだけの知人から唐突な誘いだった。

もちろん仕事を辞めたことも

言ってないような仲なのだけれども、

と言うか仕事を辞めたことを言える人など家族と、バンドのメンバーと転職の面接相手くらいだろう。自覚のない間に、人を信用出来なくなってしまったのかもしれない。

 

それは唐突な知らせだった。

好きなバンドのライブに向かうため、

天王寺へLUUPを利用していた道中

祖父から電話があった。仕事の最中だろうと容赦なく電話をかけてくる祖父だから、いつものことだろうとスルーしていた。

それは天王寺のライブハウスに着き、

整理番号順に並んだ時だった。

祖母が倒れたという知らせが母から入った。

もう整理番号が呼ばれるその手前だった。

小脳の出血大事はないと聞き、ライブを観た。

ライブは一期一会、その時々のセットリストがある。死に目に遭えないなんて言われる仕事をしていたからか、不思議と落ち着いていた。

後日、見舞いに行くと祖母は管を繋がれながらも祖母だった、暑そうにミトンを外し、ぼんやりとした滑舌で一生懸命話してくれた。

それから数日、また見舞いに行くと祖母はやはり祖母であった。

コンビニのコーヒーを片手にスイーツを愉しんでいた。口を開けば、病院食が不味くて食べられないという子供のようなことを宣う。

実に祖母らしく安心したのを覚えている。

そんな祖母は山科のリハビリ施設に転移して、

社会復帰に奮闘しているが、その施設の食事に対しても文句を言っているようで、なぜかホッとした。いい加減自分がどういう状況で病気なのか理解して欲しいところではあるが、リハビリがうまくいけばそれでいい。それだけでいいんだ。

 

それは唐突な判断だった。

「仕事を辞める」そう決めたのは今年4月だった

年度が変わるタイミングでと自分の中で決め、

社長とも話していた。それまでに上に上がらなかったら踏ん切りをつけようと。

リミットを設けないとズルズルと居座って、自分にも会社にも良くない、そう思ったからそう決めた。

しかし、私は辞めるタイミングを予定より半年早めた。逃げるように早めた。いや実際逃げた。

音楽がやりたかったのは本当だけれども、辞める理由にしてるのもまた事実で、逃げだの負け犬だのと言われたが、それは自分が痛いほど分かってるし言われて当然だと思った。

だが、たぶんその当人は私のことをどこまで知って言っているのか知ったことではない。

年内で上に上がらなければ辞める、

そういう覚悟でやってきた半年間だった。

経験も積んできた矢先だった。

全てを嘲笑うかのように、吹き飛んだ。

後輩に後ろから刺され、

4年の研鑽を全て蹴散らされたのだ。

思えばぼんやり長くいるだけの4年半だったが、

それでも譲れないものもあったし、覚悟して挑んだ年だっただけにダメージは大きすぎた。

「ここからもう一度この業界で」という気持ちも

湧かなくなってしまった。

肩書きも、経験も未熟な自分がまたほぼゼロから積み上げるのか…20代前半でしたことと同じことを繰り返すのか…そう考えれば考えるほど、全部馬鹿らしくなって。どうせ0から積み上げるなら

趣味や娯楽も出来るところにしよう。なんなら

趣味を軸にして仕事を考えようと思い転職を決意した。

職場は契約が切れるタイミングの9月で卒業

基、辞め。そそくさとその足で会社も辞めた。

このタイミングを逃すとズルズルとまた行ってしまいそうだったから辞めるという選択をとった。

それはまさに逃げだった。

音楽をやるからというのも、逃げるための口実だと思われていた。

ただ、逃げでもなんでも良い。

人生の棚卸しをした時、たまたまタイミングが

そこだっただけで、逃げるしか考えられなかった。正しい判断を出来るうち、そうできて良かった。感覚が麻痺していればどうなっていたか

想像に容易いだろう。

 

その別れは唐突というより

当然のようにやってきた。

8月信楽に住む母方の祖母が死んだ。

くも膜下出血で意識不明となり倒れてから1年半だった。放送の仕事をしてた当時、金曜日に便りがあって、土曜日には通夜を行った。

本来なら金曜日から帰っても良かったが、

仕事してから来てもいいと言われたので、

徹夜明けで通夜に向かった。

京都に帰る電車で爆睡、京都から信楽に向かう車で爆睡したのに、式でも頭がカクンカクンなる始末。本当におばあちゃんに合わせる顔もない。

その後日、火葬を執り行い、遺灰となったそれは

あまりにも呆気なかった。

本当に火葬だけはどうも好きになれないというか

受け入れられない。あのスピード感といい

人を焼くということだって。到底耐えかねる。

だけれども、亡くなったということはどうしてか疑いようもなく、すっと腑に落ちた。

父方の祖母が倒れたとき落ち着いていられたのは

母方の祖母が亡くなっても落ち着いていたのは、

おそらく死という事象に慣れてしまったのか、

乗り越えるために感情の蓋をするようになってしまったか、そのどちらもかと思う。

母方の家族は、叔父、叔母、従兄弟しか残っていない。祖父が小学生の頃に亡くなり、

そして従姉妹は私が中学か高校生の時に亡くなった。特に、従姉妹は自ら死を選んだということもあってか、少々のことでは動じなくなった。

おそらくそのことがきっかけで、何らかの死別することへの耐性ができたのだとそう思っている。

すっと腑に落ちたのはそれだけではない、

祖母が1年半前に意識不明になったこともそうだし、その前に会った時も私の名前はあやふやだったそんなとこから不思議ではなかった。

だから、血も涙もないと言われようと、

何を言われようと、私は死という事象に耐性があるのだ。

 

唐突な出来事の連続、

それに対処療法的に生きていく。

それが人生だ。

出来事は突然でも、別れは当然で

避けては通れないものだ。

慣れていくというのは正しい表現とは言い難いが

慣れていかなければ自分の心がもたない。

そういう意味で、「ざわめく粒子」という

曲を作りました。

無駄な話をし損ねた。

その後悔の念だけが残っている、

人って往々にしてそんなもんなのかもしれないなと思いを巡らせながら。

 

というわけでサボっていた分、喫緊に起こった唐突な話をまとめて

エッセイとして書き上げた。本当は二日くらい前に上げる予定だったが、

色々不具合で申し訳ない。

また明日から毎日更新をしていく。